悔しいは原動力になる
最近、なんとなく無気力だった。大学生活は半年以上経ち慣れてきたものだ。刺激のない日々が続く。
ふと、あれ?自分は何をしているのだ、と自問自答する日々。
そんな中、先日大学で線形代数のテストがあった。私は希望学部がきまっており、前期の成績を考慮すると、そこまで必死に勉強する必要がなかった。
北海道大学の制度については過去の記事を参照していただきたい。
勉強をあまりせずにテストを受けた。当然手応えは微妙なものであった。
もう一度言う、そもそもそこまで良い成績を取る必要のない科目だ。単位を取れればいいのである。単位をとれるくらいには解けたから何も問題はない。
それなのに何かおかしい。びっくりするくらい悔しいという感情が湧き上がってきたのだ。いったいなぜなのか。
もしかすると人間は本来そういう風にできているのではないか。つまり、悔しいの積み重ねがその先の行動の原動力となっているのではないかと。
不思議だ。めちゃくちゃ悔しかった。必要最低限は満たしたにも関わらずだ。
逆にいえば、私の中にもまだ悔しいという感情があることにほっとした。刺激のない日々から解放された、そんなある種の安心さえ感じられた。
私はまだまだ腐ってない。それがわかっただけであのテストは収穫だった。
勉強だけじゃなく、あらゆることに悔しいを感じたい。
そのためにはやはり競える仲間が必要だ。勉強にしてもスポーツにしても何にしても。
他人との比較が発生しない己自身のことに悔しいと感じられる人間は相当凄いと思う。それこそトップアスリートなどだろう。
あいにく、私はそんなできた人間じゃない。だからこそ、周りを利用する。一見理不尽そうな環境でさえも、逆転の発想で利用していく。そうやって生きていきたい。
悔しいという感情はこんなにも人を変える。だが悔しいは一過性のものである。時間が経てば次第に薄れていく。しまいにはなくなってしまう。だから、悔しいと感じた瞬間になにかしらの行動に移すべきだと思った。
一回一回の悔しいを大事にすべきだ。これを利用しない手はない。
そういうことに敏感になれば、より人生は豊かになるだろうと期待したい。